行ってきます

ふと目が覚める。
汗で体に張り付いたTシャツがやけに気持ち悪い。
カーテンも引かないまま寝てしまったらしい。

イーストシティの宿屋。
マスタング大佐から「人体錬成に関連する書物が手に入った」と連絡が入った。
滞在していた街から急いで汽車に飛び乗り到着したのは夜10時を過ぎたころ。
何度も足を運んでいる東方司令部だが7時以降は人は疎らで、9時過ぎには余程のことが無い限り皆自宅や寮へ帰宅する。

大佐のことだ、誰かとデートしていると見越して素直に宿屋に泊まることにした。
本さえ手に入ればこの街には用はない、弟のアルフォンスと相談して本を受け取った明日には発つと決めた。

旅立つ前は必ず冗談交じりの会話と笑顔で送り出してくれるだろう。
苦手な“あの”言葉と共に。

“あの”言葉が苦手になったのはいつだろう。
聞くたび、自分の心の中で渦巻く何かが生まれる。

外はまだ薄暗く、エドワードは再び瞳を閉じた。

朝一番に宿屋を出る。
冷たい空気が新鮮な酸素を肺に満たしてくれる。
アルフォンスに体があれば「いい朝だね」と言ってくれたかもしれない。
そう考えたら自然と早足になる。

東方司令部に入る階段を上がってく途中で、歩みを止めたアルフォンスに気づく。
「んあ?どうしたアル」
見下ろす形で退屈そうな声でエドワードが振り返る。
「兄さんだけ大佐のところに行ってきたら?」
アルフォンスからこんなことを言い出すのは珍しくて不思議そうな顔をしたら
「だって受付からあそこまで行くの時間かかるでしょ?兄さんが本をもらっている間に僕は本読んでるから」
とだけ返された。

傷の男の事件以来、厳重体制の東方司令部は部外者をすぐに受け入れることは無くなった。
軍属所属のエドワードでさえ一応の許可申請は必要だし、国家錬金術師の資格を持たないアルフォンスが同行すると倍時間が掛かる。

父と母が消えてたった1人の家族――図体が大きい鎧でも弟に違いないし、周りになんと言われようと少しでも側にいたかった。離れたくなかった。
自分1人で行けば効率は良い。
本を受け取ったら直ぐに発つと決めた事を思い出すと了承するしかない。

「わかった。気を付けろよ」
「うん!図書館にいるね」

実際に表情は読み取れないが優しい声だった。
音を立てて歩きづつける大きな背中を見るのを止め、エドワードは階段を登った。

受付が済むと階段を駆け上がり一室の前で立ち止まる。ロイ・マスタングの執務室だ。
すぐ近くにホークアイ中尉達の仕事場があるが、それは後で顔を出せばいいだろう。
ノックをすると部屋から「入りたまえ」と聞こえ、乱暴に扉を開けた。

「よぉ、大佐」
「来たか、鋼の」

椅子に腰掛けたままのロイは以前と変わらない。
冗談でも言ってからかってやりたい反面、ヒューズの死でまだ気落ちしていないか気にしてしまう。
母の死を思い出すと今でもアルフォンスは取り乱すし落ち込んでるに決まっている。
立場上そんな素振りも見せず仕事を続けるロイに尊敬はしているが、本人には言わない。

「それで?いい本、手に入ったんだって?」
「ああ、セントラルにいる知り合いに無理言って取り寄せた物だ」

ロイがデスクの引き出しから本を取り出しエドワードの前に突き出す。
赤いカバーは色褪せて傷だらけだ。
間から見える紙は黄ばんでかなりの年代物だと分かる。

「そりゃどーも」

エドワードが受け取ろうとした瞬間、ロイがさっと本をデスクに置いた。
「って、くれるんじゃなかったのかよ!!」
怒鳴りながら強引に本を取り上げようとするが奪われぬようロイも本を手に取る。

「鋼の、錬金術には等価交換の原則があるだろう?これにも代価を払わなければ――な?」
「何が『な?』だよ!あー腹立つ!で、何が望みだよ」
「キス」

次の瞬間、エドワードは手のひらを合わせパンッと乾いた音が響いた。

「アアアァァァ!!鋼の冗談だ!!」
「質の悪い冗談は止せ」
「キスが駄目ならちゃんと挨拶はするように」
「はぁ?」
「君はあまり挨拶をしないからな。大総統の地位に着いた時のためにこれからしっかり教育していこうと思ってね」

真っ直ぐ見つめてくる視線が痛い。
その瞳がやけに厭らしくてエドワードは床へ視線を逸した。

「ちなみに私の前のみで――だがね」
胸が高鳴る。顔を上げるとまだ見つめていた黒い瞳に鼓動が早くなった。

「ほら弟が待っているのだろう?」

ロイは本を持たせてから金色の髪を優しく1回だけ撫でる。
エドワードは振り払わず手が引いてから無言のまま扉に向かう。
ドアノブに手をかけて――すぐには回さず振り返ってロイの方を見る。
右手を額に持っていき、途中でくるりと手のひらを見せる。

「いってきます」
「気をつけて行ってきたまえ」

ロイが嬉しそうに笑うのでついエドワードの頬も緩んでしまう。
今度こそ部屋を出る。
パタンと扉が閉まったのを見届けたロイは瞳を伏せて一層嬉しそうに微笑んだ。