部下や周囲の噂は嫌でも直ぐに耳に入ってくる。
【軍士官学校と取り仕切る、そして総帥である、あのミロク様が子供を引き取った】のだと。
あの方も物好きだな、と心の中でぽつりと呟く。
自分の事・今回の事といい、あの人は何を考えているのだか解らないものだ。
つい、1時間程前に届けられた手紙には、まさに噂になっている張本人からのもの。
席を立ち、部下に外出すると告げれば、眉間に皺が寄った。
馬車が施設の前で止まり、地面に足を着ければ、誰もが敬礼をする。
指定された部屋の扉を4回ノックすれば「入りたまえ」とすぐに返事が返ってきた。
「失礼します」
共に居る少年、服と頬には擦り傷や、こびり付いた血が拭いきれていなかった。
「待っていたよ、アヤナミ君」
軍帽を取ってお辞儀をすれば、相変わらずの目でこちらを見る。
ミロクの目は出会った頃から気に入らない。
自分と同じ“何かを隠し、自分の願望を達成させたい”という、ものが露骨に表れていたからだ。
「孤児を引き取ったとお聞きしましたが?」
視線はアヤナミから、すぐに子供に向けられる。
「面白い拾い物を見つけてね……今から戦闘用奴隷として育てるつもりだよ」
深い緑色の瞳からは泪を浮かべることもなく、ただ落ち着かない様子だった。
アヤナミは近づきながら、手袋を外す。
「名は?」
その問いは子供へか、それともミロクへか。
テイト=クライン、とだけ老いぼれの方が呟く。
いつも通り、指を胸に忍び込ませれば、記憶が入ってくる……筈、だった。
(何故、記憶がない……?)
すぐに指を離すが、つい目を細めながらテイトを見つめる。
家族・兄弟、全ての記憶がない。
ただ、生きていく為に必要最低限の言語と知識のみ。
隣で
「後々、君の元で働いてもらおうと思っている、どうだろうアヤナミ君?」
などと、ミロクが言ったことは、耳に届いただけで脳内に記憶されることはない。
「それは嬉しい限りです、ありがとうございます」
いつもの社交辞令で返す。
それにしては妙だ、とアヤナミがふと思う。
たったこれだけの用件で、この老人が国軍参謀長官である自分を呼び出すのだろうか……。
「君は察しが良くて本当に困るよ。こんな用件で呼び出すのか?という顔をしている」
その言葉で、アヤナミはやはりこの老人は食えない上に、嫌いと無関心を通り越して殺意さえ覚える。
「ならば、私はどうすればよろしいのでしょうか?」
「君の時間の空いた時にでも、この子の様子を見に来てほしいんだが……難しいだろうか?」
孤児という時点で、どこから拾ってきたかなど解りきっていた。
つい最近終戦したばかりの、旧ラグス王国の子供。
そしてこの軍士官学校理事長ともあろう立場の人間が、たかがラグスの子供1人に執着するのか。
表裏一体の関係なのは確実なのに、糸口が見出せない。
「――わかりました。ミロク様にはお世話になっていますので、私でよければ」
そう、アヤナミはこう答えるしかなかったのだ。
「助かるよ、アヤナミ君!」
瞳に移る自分の姿はただ、無機質のまま。
脅えることも、泪を流すことも、言葉さえ発する気配がない。
全てを思い出し長への憎悪を取り戻し、感情さえ消えた今の自分を見ているようだった。
旧ラグス王国と終戦してから日が間もない。
事務処理は次から次へ舞い込んできて、目を通し、処理をする。
「アーヤたん、ちょっと遊びに行きたくなっちゃったよ……」
口元から飴玉を放し、欠伸をしながらダルそうに椅子に寄りかかる部下。
士官学校の頃から共に、軍の道を歩み、今の時点で我が野望を知る唯一の人間。
「ヒュウガ、早く手を動かせ」
視線をデスクから逸らさず、アヤナミは会話を一言で切る。
そういえば……、そう続けるヒュウガの声に聞く耳など持っていなかった。
「ミロク様の引き取った子、可愛かったの?」
アヤナミの手が一瞬だけピタリと止まり、再び動き出す。
「愚問だな。私からすれば、子供1人執着するミロク様の気が知れないがな」
思い起こせば、テイト=クラインを見せられてから早1ヶ月経つ。
相手を了承したものの、スケジュールの関係でここ数週間オフなど一度もなかった。
何も出来ない老いぼれとはいえ、自分より立場は上の総帥だ。
思い立ったようにアヤナミは席を立つ。
「私は用事で先に退室するが。――ヒュウガ、解っているな?」
「……」
弾圧のおかげか、ヒュウガは飴玉を銜えて、震える手で書類に目を通す。
それは恐怖故か、デスクワークから来る禁断症状からかは、知るのは本人のみである。
いつ来ても変わり映えしない、ミロクの屋敷。
手入れの行き届いた庭園、そして室内。
アヤナミ、と名を名乗れば、いつも通りに使えているメイドが出て来て、頭を下げる。
一言も発することのないメイドは一室に連れ、立ち止まると再び頭を下げた。
ドアの開く音で、飛びかけていた意識が浮上する。
テイトは目を見開き、幼いながらも一瞬の殺気を放つ。
だが、アヤナミにとっては虫が飛んでいるどころが、空気と同等のもの。
感じることなどない。
「……」
「……」
お互いに、口を開くことはない。
アヤナミにしてみれば、ミロクに対しての社交辞令の一環に過ぎない。
テイトが自分のここで“何か”を仕出かした失態をミロクに通告するとも思えない。
体を起こそうとするだけで激痛が走るのか、テイトの顔に汗が浮かんだ。
既に訓練が始まっているのだろう、肌には傷跡ばかりが目立つ。
「……何か、僕に用事なんですか?」
「……」
初めて聞いた声は、鈴の音の様に幼い。
ただ、無表情のまま視線を向けられる。
「ミロク様直々の願いだからな。――訓練は既に始まっているようだな」
「はい」
傷跡がなければ、白い透き通る雪の様な肌。
頬はまだ赤く、幼さが消えない。
「何かあれば、ミロク様か私に言うといい」
「はい。……でも、僕は貴方の事は、別にいいもん」
「そうか」
返事を返すと早々退室すると、メイドが頭を下げて玄関まで見送りに来た。
車に乗り込むと、不意にテイトの言葉が脳内で囁かれた。
デスクワークをしてもしても、脳内でリピートされる子供の声。
周りに感づかれないようにそっと、溜め息を細く吐き出す。
だが、いつでも休憩中の部下には解りきってしまうようで。
「アヤたんが珍しいね、悩み事だなんてね☆」
ヒュウガが愉快そうに笑うと、書類をデスクに置きながらユキカゼに顔を見つめられる。
「ああ、確かに!」
ユキカゼも微笑みながら自分の椅子に腰掛けた。
「さては……ミロク様の、お坊ちゃまのことだね~?」
「噂で聞きましたよ、旧ラグス王国の子供……奴隷を引き取ったのだと」
この軍はどこまで話が筒抜けなのだろう、アヤナミは自然と額に手を置く。
噂ではなく、その全てが事実だから訂正する必要がない。
「敗戦国の奴隷、とはいえ……まだ年齢は5歳にも満たなかったんでしたっけ……悲しいですね」
落ち込み気味のユキカゼの声を聞いて
「そんな事言うのは君ぐらいだって!」
と、面白可笑しくヒュウガが笑いながら返される。
「……アヤナミ様、もしその子供に会う機会があるならば、これを渡して頂けませんか?」
「ああ……」
受け取ると、手にずっしりくるものだが、包みで中身が何かわからない。
「奴隷にプレゼント、とは……ユキカゼも律儀だね~☆」
どうとでも言ってください、そう返答したユキカゼは再びデスクワークを再開した。
プレゼントを預かってから半日。
長引かせると機会を失う、と今までの経験(生)で学んだ。
早々ミロクの屋敷を訪れると、以前と変わらず部屋に案内された。
ノックをすることはなく、ただ部屋に入る。
ベットで横たわる姿は愛らしい天使を思わせる。
瞳を瞑っている顔はただ寝ているだけなのか、それとも何かに祈っているのか。
気配を察知し、瞼がゆっくり開かれ、翡翠の眼と視線が交わる。
「…………」
「…………」
お互いに第一印象は最悪だっただろう。
私情を話す程に仲が良いわけではなく、かといって顔を見に来ない程に遠い関係でもない。
「私の部下から、だ……」
机に渡された包みをそのまま置く。
用事は本当にそれだけ、扉の閉まる音がした。
誰かに物を貰う行為など、初めてのことだ。
テイトは、そっと包みを開ける。
「……」
出てきたのは長方形のガラス細工だった。
そのガラスの中をゆっくりゆっくり、紫色の液体が浮遊する。
クレナが部屋の電気を消した後も、テイトは何度もガラス細工に目をやる。
ほのかに射す月明かりが机を照らした。
「お月様……」
手の届かない物を見立てた物ほど、残酷なことはない。